昭和43年11月16日 夜の御理解
お道の信心をさして頂いておると、神様のご都合だと。あれも神様のご都合、これも神様のご都合ということは、ご都合主義ではない。あれもおかげ、これもおかげと言う内容のご都合でなからなければならん。ね。神様のご都合なんだ。(?)神様のご都合に違いはない。
まあそこまでは申しますけれども、なら、どういうご都合かと。神様が全てをこうおかげにして下さろうとする、本当の幸せにして下さろうとする働きが、信心しておると、様々な働きになって現われてくるのである。ですから、神様のおかげを下さろうとしておるご都合なのですから、そのご都合を、いわゆるご都合と言う言葉をほんとに使えれる信心。ね。内容が分かってのご都合である。ね。
そこんところを例えば、転んでケガをしても神様のご都合。泥棒に物を取られても神様のご都合。そらご都合と言うておる、ご都合に違いはないけれども、言うておるだけではいけん。ね。それではいつまで経っても、いわゆるおかげを下さろうとするご都合である、そのご都合をご都合と現しきらない。ね。ですから、神様のご都合として、そこが有り難く頂けるということが第一。ね。
同時に、神様のご都合としてのその働きがです、ね、狂うてきたらおかげが、例えば、頂けるものでも頂けなかったり。ね。早く頂けれるものが、いつまで経っても、同道回りをしてぐずぐずしておる、といったようなことになるのですから、そこんところを私どもは、目の詰まった信心せにゃと言われるのはその事なんですね。
私は思うんですよね。久留米の笠さんが、ああして毎日お日参りをされます。もうそれこそ、ほんとに忙しい方なんですね。それこそ寝る暇もおしむようにしてから、御用に没頭しておられる方なんですけれども。そうやって日参されます。まあ、ですからもう、御祈念は、あの、皆さんご承知の方もおりましょうけれども、(向いたら?)もうほんとに真剣に御祈念をされます。黙ってこうもう慌てられません。
そしてもう御理解を頂かれることもないですけれども、ちょうどその頃は、皆さんがそこで御理解を頂いておる頃ですから、まあその御理解、御祈念しながら、まあ言うなら、小耳に挟みなさる程度のことだと私は思うんですけれども。それこそ御理解を日々頂いて、一生懸命その御理解に取り組んでおると言うか、それを書いたり控えたりしておる人達よりも、かえって信心になっていかれる姿に、いつも私は有り難いなと思うことがあるんです。ね。
皆さんもご承知のようになかなか実意丁寧な方なんですけれども、今日もお参りになって、昨日と一昨日とある事情でお参りができなかったんです。それで昨日その事についてから、これいつもの事ですけれども、「先生、昨日と一昨日は、こんな訳でご無礼いたしましたけれども、どうぞ神様にお詫び申し上げて下さい」ね。「これお詫びの印でございます」と言うて、2日間のお初穂と、それから御神酒を一本持ってお参りになられた。
で私、後から参ってこれた事、それが言うんですよ。「はあ先生、広大なおかげを頂きました」と言うて、御神酒一本のお供えになる人はたくさんあるけれどもです。ね。お詫びの印に、御神酒の一本も持ってお詫びをして頂くというような信心の人は、まあないと私が言うんです。口ではお詫びを、それはなるほど、お日参りと決めておるお日参りができないのですから、お初穂ぐらいは、例えば、2日間なら2日間分お供えをしてから、「( ? )でご無礼いたしました」と言うて、まあ言うなら、神様のご都合がどうありよるやら分からんのですから、そこが切れ間がないように、切れておる所はお詫びをすると言ったような生き方なんです。ね。
けれどもその事に対してです、なら「先生、広大なおかげを頂きました。どうぞ神様にお礼を申し上げて下さい」と言う御神酒一本あるけれども、お詫びの印に御神酒一本と言うのは、もうほんとに、ここでは笠さんだけだと、いつも私は思うんです。ね。行き届いたということを、こう申しますが、私ここんところがね、金光様のご信心するなら行き届かにゃいかん。ね。
どういう素晴らしい神様のご都合であるやら分からない。二人のお子様が同時に病気をなさった。ね、教祖様の御事。ね。一人は言わば、あえなく亡くなられた。一人はおかげで助かられた。ね。そういう時にやはり、その氏神様の神主を呼んで、お礼のお祭りをなさっておられる。ね。
神様のおかげで一人は助かりました。一人は私の信心不行き届きの為に、ね、亡くなりましたけれども、「これは私の信心の不行き届き」として詫びておられる。ね。神様のおかげで一人は助かったとして、そこに神様に手厚うお礼を申しておられる、と言うところなどですね。
神様の、その事によって、どのような大きなおかげを下さろうとしておったか分からない、そのおかげをもうほんとに、ごっそりそのままおかげを生かして行く事ができる生き方なんです。ね。
ほんとに、私はその思うんですけれども、ここに十何年前に御神縁を頂かれた当時はですね。人の広い土地を、まあ信用で貸してもらわれて、そして、自分で家を建てられた。もうそれこそ、(いっとした、?)まあ言うなら掘建て小屋のような家を建てられてからでした。
自分は、とにかくまあたいへんな奇病があった。外に出られないという病気であった。非常にその、いろんな事に恐怖される。ね。いわゆる「恐怖病」と言うのです。何事にでも。そういう奇病があったのですけれども、ね、それをおかげを受けられて、だんだんおかげを頂いて。ね。最近ではその土地が、どうしてもお返ししなければならなくなってきた。1年前から、それが(世当たり?)があっておった。ね。
それを神様におすがりし、お願いしながら、もうそれこそまあ、を受けたでしょうけれども、それこそ、どんなに矢の催促を受けられても、それこそ微動だもされなかった。土地の、例えば、もうあんた後1ヵ月になったが、あと15日になったが、「出てくれんならどうもこうもできんか」と言うてその、「あれだけあんたを信用してしとったのに、こんなこっちゃ困る」と言うて、最後には、もう向こうのご主人が2回もここに見えられました。
「もう笠さんをばっかりは、もうとにかく家を探しなさるふうでもなか。土地を探しなさるふうでもなか。合楽の金光様がこう仰るから、ああ仰るからと言うて、もうそれこそ動きなさらん」それだけ強引になって、ね、「決してあの、強引をすむような事はなか、神様がそう言うて下さるのですけん、それまで待って下さい」と言うて、ね、だから、一度ご主人が見えられてから、私の話を聞いて、「そんなら先生に対してお待ちしましょう」というようなことになって、1月間延ばしてもらいなさった。その間に今のお家を頂かれた。
もうそれこそ、もうほんとにどっから、ね、降ってくるか沸いてくるか分らんようなおかげでした。それも自分のすぐ足下に、しかももっと良い場所に、しかも、あの風呂屋の跡でございましたから、その、二階がお住まいになり、下があれは、自動車が何ぼでも入れられて、修繕ができられるような、なかなか、とてもちょっとで頂けるはずじゃなかったんです。その時にはもう、ばっちりお都合お繰り合わせが頂けてですね、それこそ金銭の事から、転宅の事から、もうほんとに、私は笠さんほど、神様のご都合ということを知って、また神様のご都合だったというおかげを受けてこられた方も少ないと私は思うくらいにおかげを頂いた方なんですよね。
ですから、その神様のご都合ということがです。ね。もう例えば、家が見つからんのもご都合だと頂き切っておるわけです。ね。こうである事も、ね、仕入れた品物が売れない事も神様のご都合に違いはない。ね。それも、よりおかげを下さることの為のご都合であるとして、信じておられるのですから、自分の信心が自分の都合ぐらいで崩れるような事があっては、神様のご都合が崩れると言う思い込みがありなさるのじゃなかろうか、とこう思うです。ね。
神様のご都合ということを中心にして、自分の都合は次の次なんです。そこで、例えば、んなら( ? )できないというような時に、いわゆる、そのような行き届いた信心ができなさるんだな。そこに例えば、神様のご都合が崩れる事もない、微動だも、動く事もないおかげになって現れてくるんだ、とこう思うんです。
神様のご都合と。今あの、伊万里の竹内さんから、この24日が、竹内さんのお姉さんにあたられる方の立ち日であった。言うならば、神様に、立派な、まあ慰霊祭をなさるわけです。月次祭というわけじゃないけれども、まあちょいと、(お祈りしたい?)とこう言うのである。けれども、23日が、伊万里の皆でお参りをなさる日になっておるから、23日におかげを頂きたい、とこう言うのです。1日飛び越されるわけです。ね。目ん玉に指突っ込むように言われたって、それこそ御霊様が立ち日の方におりなさる。
まあ、たとえて分かり易く言うならね、いわゆる、神様には神様のご都合があるということです。ね。天地の親神様のご都合があるのだから、天地の親神様に、私ども、何々何々と言うたもの、23日が立ち日ですけれども、あ、24日が立ち日ですけれども、23日に移行さして頂きたいから、と言うお願いお届けをしてあって始めて、23日にまともに、言わば、遺族の者の慰霊の真心と言うものをです、受ける事のできなさるのでございます。ね。
神様には神様のご都合があるのですから、ね、それを自分勝手にです、自分勝手に事を運び、事をさして頂くといったようなことが、神様のご都合を反れるかということが分かる。いかに、言うならば、御神意のままの生活。御神意に沿うた生活がなされなければ、ね、いわゆる神様のご都合と言うのは、おかげを下さろうとするご都合以外にはないのです。あれもおかげこれもおかげ。ね。その、おかげにして下さろうとするところのご都合をです、私どもの不行き届きの為に、そのご都合をずらせたり、そのご都合が、言わば、おかげであるその、おかげを頂く事のないことに消えてしまったりしたんでは、神様に対しても申し訳ないことになるのでございますから。ね。
神様のご都合、神様のご都合だと思います。ね。それを、その神様のご都合をです、ね、私どもが有り難く頂かなければ「神のご都合」と言えないのです。ね。
また、神様のご都合であることでございますから、そこんところが崩れないように、神様のご都合が、言わば、間違いなくお進めになられるように、ね、お粗末ご無礼のところをお粗末ご無礼として詫びて行く。ね。行き届いた、そうした信心がです、為されなければならんということを感じます。
そして始めて、神様のご都合だということになるのです。ね。私ども、ここんところをひとつ体得さしてもらうと、ほんとに有り難い。まあ言うならば、どこにお粗末ご無礼があるやら分かりませんけれども、ね、私どもなりにです、神様のご都合をご都合と生かしていけれる信心。そして、どのような場合でも「神様のご都合ですが」と、それを受けていけれる、安心していけれる、それを喜んで受けられる状態ができてくる、と言うふうに私は思うのですね。
今日の神様の日々お働き下さる、おかげを下さろうとする働きがです。ね。それをほんとに頂き抜かせて頂く為にはです、私どもの、言わば、自分の都合で、ね、自分のご都合で、その神様のおかげのご都合を、ね、右左にするような事のない為に、そこんところを目の詰まった信心と同時に、そうした意味合いにおいてのお詫び。それと同時に、ただ今ね、行き届いた。
例えば、竹内さんの家ではないですけれども、霊祭ひとつさして頂くでも、ただ自分の都合だけで「移して下さい」と言うだけではなくて、その為に、ちゃんと日を除けて、「こういう都合でございますから、この日にお許しを頂きますように」と天地の親神様に、お繰り合わせを願うておくというような、言わば行き届いた生き方がです、為されていかなきゃいけんと思うですよね。どうぞ。
明渡 孝